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会の山行記録を書き込むページを作成する方法。

現行、会の記録はマイクロソフトワードで作成されることが多い。なので、その記録は不都合がなければ、ドキュメントに保管すると、会の他のメンバーも閲覧することができる仕組みになっている。

しかし、それではワードファイルでの保存となるので、それを閲覧するにはワードもしくは互換のアプリケーションが必要となる。それを回避するために、ワードで作成した文書を全選択し、作成ーウェブページーで「リッチテキストエディタ」を立ち上げ、ワードの文書をペーストすることによりウェブページ形式で保存閲覧できる。

山スキーのこと

私の山スキーの記録は、昭和56年2月11日、旧津川町の「清川スキー場」から始まっている。「悪夢のオッタテ尾根山行」の直後なのに、と、あきれてしまう。「悪夢の・・」とは、同年1月25日の日帰り五頭山行のことで、簡単に言えば「三ノ峰」の下りで迷ってしまった山行のことである。迫りくる夕暮れ、スキー場からの音楽、足元から響いてくる不気味な沢音、あせりと疲労、ビバークへの不安、ヘッドライト、不安気な友の顔、せわしない呼吸・・・。谷底から、遭難の淵から、幾つかの尾根を乗り越えてやっと這いずりあがったのは五頭スキー場の扇山ゲレンデあたりだった。時間は午後7時半すぎ、ほっとする間もなく疲れ果てた身体に鞭打って下山し、各自が自宅へ電話連絡、亀田到着は午後10時くらいだった。その後、さらに頭を下げて回ってからの帰宅だったと記憶している。土橋、マルセツ、よしこちゃん、ヨコゲンの5人連れだった。

その翌月2月11日の「清川スキー場」の峠あたり、チェックの上着に朱色のオーバーズボンという山スタイルで、本間さんと一緒に直己のカメラにおさまっている。直己からもらった160センチのジュニア用の板に「スノートレック」のビンディングをつけ、シールは本物のアザラシを浪花さんから借り、足首の浅い登山靴はテープ状のひもで締め付けて補強していた。

その直後の2月15日も山スキーだった。「飯豊・泡ノ湯」から「冬越戸」を本間さんと直己の3人で目指した。さらに翌週の2月22日は、五頭スキー場のテントから「五ノ峰」を往復した。天候が急変する「五ノ峰」の吹きさらしをヨコゲンと二人きりだった。暗雲のもと、エッジが雪といっしょに火花を蹴散らすのが印象的だった。30歳ではじまった「マイブーム」は、その後も終わることなく続いた。2月28日からは五頭スキー場で「スキー合宿」。3月8日は春山合宿の偵察で「白山」だったが、6人のメンバーの中ただ一人スキーを担ぎ上げている。いったいどこをどう滑ろうとしていたのか。そして、本番の春山合宿「白山~粟ケ岳」は、3月21~22日だった。このときも7人メンバーで板を担いで登ったのはヨコゲンと私だけだった。登りは当然カンジキに勝てるはずはなかった。稜線に出てヒールフリーで登り下りして結構楽しんだ。しかし、両足がそろった瞬間に前につんのめり、少し間をおいてキスリングが後頭部にのしかかって自力では起きあがれなくなる。お互い助け合いながらの悪戦苦闘だった。雪洞に泊った翌日は予定を変更して「権ノ神」から下った。この下りでもカンジキに追い越されるという惨めさを味わった。それでもメゲズニ4月12日は「棒掛山」へ。最後は4月19日に「二王子」に入って打ち上げた。

 

そんなころ、職場の親睦スキーで石打スキー場へ誘われた。残念ながらスキー靴もスキーウェアもないので、そのころにしては流行を先取りしすぎた感のあるマウンテンパーカーを山スタイルの上にハオリ、登山靴に付けるプラスチック製のプロテクターを本間さんから借りてザックにつめた。唯一のスキーである160センチのスキーを片手に颯爽と電車に乗り込み出かけた。当時は冬イコール山なので、「スキーなんて!」と思っていた。それでも長いスキーがステイタスだということくらいはなんとなく分かっていたが、ホームにたたずむ自分もそれなりなんだろうと、少し得意気だったように記憶している。

そして、同じ頃に山岳会の先輩連中にもスキーのブームが起きていたようだった。そのころは、そんな時代だったのかもしれない。アラさんが骨折したりしたのも、そんなころだったような気もする。そして、ぜひとも山スキーを実践につなげたいという思いは、昭和58年の正月合宿「杁差岳」の長い林道歩きに使うという結果を残した。しかし、急造のスキーグループはその能力を充分に発揮するところまでには至らなかったし、その後も山とスキーを合わせて楽しむ雰囲気はなくなってしまい、それっきりだった。でも、それを契機にスキーを始めた仲間もいたようなので、それはそれで大成功だったのかも、と私は思っている。

 

二台目の板は、カザマの170センチの山スキー「アウトバック」だった。金具はジルブレッタ400をつけた。(直己とオソロで取り付けも直己からやってもらった)シールはナイロンの貼り付けで兼用靴はコフラックだった。我々の「アウトバック」はグレーに小豆色のロゴが入ってものだったが、立川さんとアラさんが持っていた「アウトバック」はワンランク上のもので黒い板だった気がする。たしか、黒い板は仁さんとかヨコゲンさんとかも持っていたような気もするが記憶は定かではない。

五頭山、二王子などのほか、スキー場へテント持参で行くこともあった。「六日町ミナミ、いろり庵」に合宿のように大勢で押しかけてゲレンデスキーを楽しんだのも、その頃だった。しかし、見よう見まねではじめた山スキーには自ずと限界がおとずれた。最低限の技術というか、スキーのイロハぐらいは知らないと怪我のもとだと気づいた。そこでゲレンデ用のブーツを別に購入してゲレンデ通いをはじめた。ところがゲレンデスキーもそれなりに奥深く、いつの間にか、イッチョマエに193センチの板を履くようになっていた。次は2メータだなあ。などと「したり顔」だったある日、周りをカービングに囲まれていることを意識したとたん、我に返った。

 

山スキーの復活は、平成12年3月20日だった。職場(新津工業高校)の山好きに誘われて「二王子」を滑ることとなった。何年も使ったことのなかった「アウトバック」とシールをひっぱり出し試しに貼ってみた。粘着力はなんとかあると思えたが登ったり滑ったりできるか不安だった。そのうえ、兼用靴は数年前に劣化がひどくて処分してしまっていたので、ICIのバーゲンを待って新品を購入して本番に臨んだ。

しかし、結果は惨憺たるものだった。午前7時に南俣の部落で車を降りるとすぐ板を履き、神社を通過しそのまま急登も履きっぱなしでグイグイ登ってゆく連れの二人からは大きく離されてしまう。また新調したばかりのストックは二段に伸縮するものでリングは新雪用の大きなものが着いていた。交換用にゲレンデ用のリングも着いていたが、そのまま取り替えなかった。この新雪用のリングは柔らかなテープ状の紐でポールとつながれていた。だから斜面が急になると、ポールの先だけはかろうじて雪をとらえるもののリングは斜面と平行になってしまい踏ん張りが利かない。加重すればするほど後方へすっぽ抜ける。道具のせいにするのも癪だがジタバタするだけで進まなかった。一王子の小屋直前では、とうとう板を脱いでツボ足になってズボズボと汗だくになって合流した。その後も状況に大きな変化はなく「油こぼし」直下で正午となってしまい、ドッカと腰を下ろし影も形も見えなくなった同行者のことは意識的に忘れ昼食とした。とにかく腹にものをつめて落ち着こうと思った。そして、やっとの思いで山頂小屋につくと、二時間は待ったようなことを言われたり、「時間切れ間近なので急いで下らないとニノックスへの分岐がわからなくなる」などなどを、聞き流し疲労困憊の体力を回復させるため、タバコをふかしたり茶を飲んだりして時間稼ぎをした。

一服後、荷物が重かったかも・・・などという反省する間もなく、山頂から滑りはじめることとなった。滑り始めてやっと「滑るために登ったはずなのに滑れないほど疲れてしまっては意味がない・・・」ということに気がついてしまった。いかにロスなく山頂に立つか、それがすべてだった。ももはプルプル、ひざはガクガクで滑るどころではない。運よく前に突っ伏すことはなかったが、滑ってはコケ、滑ってはコケを繰り返しながら、ようやく「ニノックス」最上部に飛び降りた。しかし、ここからさらに苦難は続いた。ゲレンデを滑りはじめて、これまた、はじめて兼用靴が予想以上に柔らかいことに気がついた。通常ならキッチリ抑えられている足首の前傾角度から、さらにもう少し先までいって止まる感じなのである。畳の上で何度かシュミレーションしてきたが全く意味がなかった。この違和感と脚力の脱力症状が相乗効果をもたらし思うように滑れない。大勢のスキーヤーつくりだしたアイスバーンでは押さえが効かず、コブ斜では飛ばされフラフラヨタヨタまるで楽しくなかった。登りのマイナスをとうとう挽回できないまま待望の山スキーは終わった。板を外したのは午後4時。メンバーの奥さんの送迎で車を回収したのち集合場所で解散。愛車に乗り込むとドッと疲れがあふれ出てきて長い一日が終わった。

 

次の日から考えた。何故うまくゆかなかったのか?ひとつにはシールにあった。使用後のシールを乾かしていたら接着面と滑走面がパラパラとはがれるうえに、毛が抜けてゆく。保管状況もさることながら、寿命だったようだ。ふたつには、金具の登高機能に不足があった。同行者たちはストックで簡単にロックからフリーに切り替えたり、登高板を起こしたり倒したりしていたが、ジルブレッタ400は登高板の上げ下ろしは勿論、ヒールのロックや解除もストックではできず、その都度、しゃがみこんで手でひねらねばならなかった。それも暫くぶりの出番だったので力一杯ひねってもそう簡単には動かなかった。さらに気のせいか板がヘタッテいてシールの効果を引き出せなかったようにも感じた。そして最大はストックだった。でも、ストックはその日のうちにリングを交換した。そして翌週、早速ICIにゆき、シーズン終盤の売れ残りの中から、ビンディングはジルブレッタ・イージーゴーを、板は「お奨めコーナー」にあったロシのゲレンデ用の板(フリーライドのロゴが入った赤青白の縦縞模様でバンディッド風)につけてもらいシールも新調した。

そして、その次の週の4月1日。二泊三日の沖縄旅行へ旅立つカミさんを見送ると、意を決して「五頭」へ向かった。五頭の林道を試走し、その足でニノックスへ行き半日汗だくになって帳尻あわせをし、翌年以降に期待することとした。

しかし、残念ながら当会のスキー事情は低迷中でチャンスはしばらく巡ってこなかった。直己はアルツで骨折した後「スキーはしばらく自粛」宣言しているし、ヨコゲンは一時期歩くスキーに転向し、今では「スキーは完全にやめました」と公言してはばからない。勝山さん、新保さんたちは海外遠征など「セレブ派」だし?オサムちゃんや、清水、土橋は多忙をきわめているのか「総会」に顔を出すこともない。ただ、ときどき仁さんとクマちゃんが「五頭」へ行ってきたとか、山スキーのなにかを新調したとかと聞いたような気がする。とは言うものの、こちらもゲレンデスキーにとらわれの身で、一時期はボードにまで色気を出すほどだったので、実際のところは手一杯で余裕もなかった。ただ、装備小屋で、ボードの話題で盛り上がり一瞬期待したこともあったが、それ以上の進展はなかった。

 

平成15年2月、「俎倉山」での県山協冬山講習会で、ショートスキーで参加した人を見つけた。短い板など、まさか山で使えるとは思っていなかったので驚いてしまった。その翌月、偶然にも「ケスレー」のショートスキーをゼビオで見つけ、思わず買ってしまった。金具つきの板なので、購入後すぐに湯沢の「ナスパ」で一回滑ってからセットの金具をはずし、ジルブレッタ400を乗せてみた。結構な仕上がり具合だったので山岳会の定例総会に持ち込んで自慢すると、数人が少し反応してくれた。

ここから、またまた、「マイブーム」がはじまった。その年の春には、カミさんとふたりで「浅草のヘリスキー」に参加した。私はかなり前に「苗場のヘリスキー」に参加したことがあったが、初挑戦のカミさんもなんとか滑り終えて大満足だった。という話とか、苦しかった二王子の話とか、俎倉の冬山講習会のことなど、なんとか仲間を増やすことに必死だった。その甲斐あってか、直己が久々に復活することとなり、小泉さんも道具をそろえて参戦した。その年の「山スキー」は二王子からはじまり守門でピークを迎えた。直己、クマちゃん、小泉さんと私の総勢4名で滑った春の守門は最高だった。

じつは、その直前の4月17日にも守門にスキーを履いて出かけていた。このときはオレンジのフォルクルの板を使用したが、ジルブレッタ「ピュア」が歩行中に雪をくわえ込んでしまいロック機能に不備が発生することに気付き、やや不満の一日であった。インドネシアに行く前の大塚さんとふたりきりのスキー山行で、保休礼小屋で引き返すこととなったが、まあまあの山スキーだった。大塚さんからは「こっちに来てから山のことは思い出さないが、一緒にいった守門の山スキーの夢をみる」とエアメールをもらったことさえあった。

 

しかし、満を持して迎えた昨シーズンはスタート早々の一月で、「白山」に出かけたメンバーが二人とも故障してしまい。やっと立ち上げた感のあった「亀田山岳会・スキー同好会」は休眠状態となってしまった。

私としては、3台目のショートスキーをシーズン早々に見つけ、ひまひまにセットの金具をはずしジルブレッタのイージーゴーを取り付け、楽しみながら改造も終えて出番を待っていた。小泉さんも短めの板を入手してシーズン到来をテグスネ引いて待っていたところだったので、本当に残念だった。しかし単独滑降は山より不安なので止む無く自粛とした。そのうえ、会の例会にまで押し込んだ山スキーの計画は次々とつぶれていった。

正直なところ昨シーズンは、「五月の飯豊」の失敗以上の失望感を味わっていた。二王子でも守門でもかまわないからトニカク一本、気持ちよ~く滑ってシーズンを終えたかった。そんな気持ちで向かった「4月の二王子」は、労作の改造スキーの仕上がり具合も天気も上々で、最高の気分で滑ることができた。たった一回の山スキーだったが、これで来年につながると思った。これがある限り、マイブームはまだまだ終われないなあと真底思った。

 

平成18年春      佐藤ひろし